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漆黒の闇から幻想の世界へ

 厳冬の池に張られた冷たい氷に漆黒の闇。遠い過去のように感じられる今日この頃ですが、あれから三ヶ月を過ぎた今朝の五台山は、すっぽりと霧に包まれて幻想の世界を演出してくれました。一年を通しても散歩ができてこの景色に出会えることは滅多にありません。

 竹林寺のそばにあるこの池ではもう随分前からオタマジャクシからかえった蛙がケロケロ鳴いています。まぁ我々から見える幻想の世界も、ここに棲むオタマジャクシや蛙には何の関係もなく、唯々今いる環境の中で精いっぱい生きることをやっているんだろうなと想像します。そう思うと我々も自分が住んでいる環境の中でやれることを唯黙々と自分をやっているだけでもあります。

 自然の中に身を置くと、否が応にもその厳然たる事実を突きつけられます。遠巻きに山を眺めると幻想的であり、虫眼鏡で覗けば足元には虫など生き物の屍の山。しかし、顕微鏡でそれを覗けば、微生物の類が躯を分かち合い、いわゆる食物連鎖で成り立っています。そのような自然の摂理の中にあって、人間がいくら「蚊も殺さない」などと言葉でつくろってみても、その足元で蟻を踏んずけて生きているのが悲しいかな現実でしょう。 

 私がここへ足を運んでいる理由の一つが、「一言地蔵」というお地蔵さんの存在です。一つだけ願いを叶えてもらえるといういわれのあるお地蔵さんで、その祠が五重塔の袂にあるのです。私の願いは唯一つ「健康祈願」です。無理やり一つだけの願いに全般的な願いをねじ込んだ形ですが、私はそれを信じながら念じて今日も仕事に就きます。


  池



       これがわたしの思いですありがとう地蔵
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闇の中から見えるもの

 暗闇の中に良からぬものを見たり感じたりする、誰しもが一度や二度ならず経験済みのことだと思います。その理由の一つは、我々人間の「眼」は本当に都合良くできていていて、見たものをうまい具合に類推して行動をスムーズに運べるように脳で画像を作り出すことにあります。しかしこのことが、錯覚も生み出します。心の在り様によって、どんな風景の中でも特に薄ぼんやりした暗闇ほど有るはずの無いものを浮き上がらせられます。さらに人間は、創造するのが得意です。様々に虚像描いては想像して創造します。これは人間が持って生まれた習性というか能力なのでしょう。この力によって芸術はもとより魑魅魍魎の類が生み出されます。

 歴史を振り返ると、我々人間は人を虐げ、虐げられの連続で数知れずの不都合な死に怯えさいなまれてきました。生き物の躯(むくろ)は、死への恐怖心を増幅します。それは当然ながら不安を生み、やがては暗がりに魑魅魍魎を描くことになります。実は私自身、恥ずかしながらこの暗闇の中へ足を踏み込むことが出来ない時期がありました。あの貞子で有名な「リング」というドラマに熱中していた頃のことです。暗闇に交錯するぼんやりした景色に良からぬ物を想像してしまうのです。背筋がゾクゾクする、そこにお墓がある、今振り返ってみても不思議な心理状態に陥っていました。

 振り返ってみてわかるのは、やはり「死」とあやふやな世界への「不安」が重なって「恐れ慄く」心理状態にあったことです。闇夜には、心の隙あらば否応無しに闇の世界を開く力があるようです。こうした力は数々の「迷信」をあみ出す原動力になったことでしょう。その「迷信」がさらに不安をあおり、新たなる「迷信」を次々と生んだのだとも想像できます。私が闇夜を歩く理由の一つは、こうした人間の心理を知るためでもあります。心に隙があると、闇夜というキャンバスに魑魅魍魎を描き出し、心が充実感で溢れていれば闇夜こそ天空に輝く星々に希望の光を見出せるのだということです。

 人間の一生は、星に例えるとまさに「一瞬の星」であります。ただでさえ一瞬の星である我々が、何故「不安」の中で生きていかねばならないのかということです。その解消法は簡単で「一笑に付す」ことです。できなければ「はり治療」を受けることです(笑)。ただし独りではダメで、多くの人に特に人の上に立とうかという人に共有してほしいというのが切なる願いです。一瞬の星である我々が、これ見よがしの高い壁を築いて己を守ってみても万里の長城と同じことです。全くの徒労に過ぎません。笑い飛ばせる「寛容」な心を育むことで、「安心感」を受けとってほしいと思います。そのようなことを考えながら今日もまた闇夜を歩いています。しかしながらもう山を下りる頃には東の空が白みだして、南天を這いあがろうと煌めく「さそり座」ともいよいよお別れの時節となってきました。




       これがわたしの思いですありがとう地蔵

山が燃える?

 今朝の西の空には、満月が綺麗に整った姿を見せていました。実は昨日の朝、西の空の山際が薄赤く明るんでいたので、もしや山火事ではないのかと山の途中で幾度も西の山を気にしながらの散歩だったのです。今朝は、家を出るとすぐにまんまるに輝く満月が目に入り、今日は五台山への道は明るいななどと昨日の朝のことはすっかり忘れていました。そうして下山して堤防を歩いていると昨日目にした光景が、蘇ってきたのです。

 昨日は月を見ないままの西の空の光景だったのであそこに何が有る?山火事?などと少々不安でしたが、今朝の満月を見て理由がよくわかりました。薄赤く輝いていた満月が山際へ沈んで行ったのだとわかったのです。昨日のモヤモヤを思い出してすっきりした気分でした。この景色を数学的に表示すると、月は一日で12度くらいの角度の差が出るように移動していますので今朝の西に浮かぶ満月の位置と西の山際との角度はおよそ12度だったことがわかります。そしてこれが半時間で沈むんだと。

 これまでにも何度となくこのようなタイミングで歩くことはあったのだと思いますが、数分の違いで山際へ沈む満月に近い月を見ることは稀です。早朝に見える月というのも数日しかありません。もう何日もしないうちに月は欠け、また見えなくなってしまいます。そして月の存在を忘れたころに再び現れるという歳月の移ろいが不思議でもあります。月ひとつ見ても飽きさせないこの地球の営みが、我々の感性を磨いてくれたのだろうと想像もつきます。

 それにしても「知らない」ということが、「不安」や「怖れ」「慄き」「猜疑心」から「絶望感」に至るまで、際限なく増幅させられることが感じ取れます。理屈ではわかっていても心が伴わなければ理解できないに等しいことです。我々は「生」への「不安」を感じつつ「不安」が解消される過程を経て「生きる」ことの意義が「有意義」になるのだとも思います。今日一日があることに感謝!

       西に満月


       これがわたしの思いですありがとう地蔵


漆黒の闇

 私の一日は朝の散歩から始まります。五時過ぎくらいに家を出発して五台山から竹林寺までを車道を歩くとちょうど一時間少しくらいの道のりで、これが私にとって格好な運動になっています。年中同じ時間帯で歩いていますので、このシーズンでは夜明けは遠く真っ暗で人に会うことも滅多にありません。ですが、この真っ暗な中を歩くこともこの時期ならではの楽しみでもあるのです。五台山には展望台まで街灯らしきものが全く無く、まさしく「漆黒の闇」につつまれた世界です。

 我々は都会に住む限り日常的に「灯り」のある生活です。日中は日の光、夜は電灯の明かり、漆黒の闇とは全く無縁な生活になっています。遠い昔には、この漆黒の闇に映し出される「火の玉」やら「月食」「流れ星」「彗星」などなど、知識が無い時代の人には耳目を疑いながら恐怖心ばかりが煽られたことでしょう。我々人間は日が昇るとともに目覚め日が沈むと休む習性になっていますので、漆黒の闇が迫ってくると身も心も消極的なリズムになりますから、なおさら闇の中で遭遇する様々な現象は本当に怖かったと思います。

 今現在においても漆黒の闇を好む人はそう多くないと思います。闇の世界は何も見えないだけに心の在り様によって、そのまま目の前に実在するかのような妄想を映し出すことが容易になるからです。不安は恐怖心を生み、恐怖心は疑心暗鬼に満ちた妄想を呼びます。「霊」なるものは「不安」「恐怖心」「猜疑心」時として「希望」が生み出すものと考えて間違いないでしょう。俗にいう「霊能者」というのは、人間が抱える闇をよく知っている人であり、不安感や恐怖心、猜疑心といった人間の弱さを熟知した人です。

「漆黒の闇」の中にいると、自分自身の心の在り様が試されるともいえます。心が不安定だと間違いなく闇の中に良からぬ妄想を描いてしまいます。充実感に溢れていると天上に輝く星々に思いを馳せ、同じ星を眺めたであろう太古の人々の思いに心ときめく自分を見出せます。そして太古の人々は、苦難の歴史を語りかけてくれます。そこで現在の有様の尊さを切々と語って聞かせてくれるのです。先週はこの冬で最も冷たい朝が続きました。写真は、竹林寺にある観音様が浮かぶ池に張られた氷です。この池に氷が張ることは滅多に無いのですが、痛いほどの寒さがまた、今の有難さを教えてもくれるのです。




       漆黒の闇


       これがわたしの思いですありがとう地蔵
      


「マインドフルネス」と「はり治療」その2

 科学的な見地に立って物事をみようとすると、どうしても一つ一つのものを切り離して検証するため、実はそのこと自体が不自然であるということが抜け落ちていたりします。その弊害の最たるものが生命力という生き物に宿る総合力の欠如です。先日の抗うつ剤のニュースでは、偽薬と正薬との効果の差が年々なくなってきているというものでしたが、これこそが人間が内に秘めたる「思い込み」の効果の最たるもので、「思い込み」を単なる思い込みと排除してしまうところに現代医学の未熟さを感じざるを得ません。

 科学的、もっと俗にいうと学者的な観点では、偽薬に効果があってもらっては困るんでしょう。科学的な論拠が示せないがゆえ、占いのようなものに乗っ取られたような気分にでもなるのでしょうかね。しかし、思考する人間は能力が良し悪しにかかわらず、それが備わっているがゆえに様々な「思い込み」があり、偽薬でも効果を発するし、脳の中では思わぬ変化が生じて、結果的に功を奏するといったことが起こっているのです。こんなことの先に「マインドフルネス」の効用が科学的に理解されるようになったのです。

 私の経験上においても、どうしても先生に診てもらいたい、ここで治したいと思って来院していただく患者さんと、人から聞いた、他に適当な治療がないので「はり」でもやってみようと渋々来院したという患者さんとでは、実感として治療効果に随分違いがあります。症状によっては、騙されたと思ってやってきたという患者さんでも即座に効果てき面という場合も無くはないですが、慢性疾患ほどそれは難しくもあります。

 「マインドフルネス」は、単に「思い込む」というより、呼吸を日常的に意識すること、そういう習慣、それを引き出す環境などが揃って安心感を得ることでより発揮されやすくなります。「はり」の治療は、来院されてベッドに横たわり、後は任せてもらって呼吸をしているだけです。その呼吸を整える、脈を整える、その先に生命力が持つ体の自然な調整力を引き出す、それがもともとの目的になっていますので、「マインドフルネス」の概念は私にとっては取り立てて真新しい発見でもないのです。




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「マインドフルネス」と「はり治療」

 マインドフルネスというのは、簡単に言ってしまうと「瞑想」によって得られる様々な効能のことです。カタカナ横文字でいうと何だか斬新な感じもしますが、「瞑想」そのものなのです。とはいえ「瞑想」というのは、どなたでも聞き覚えがあるものの、禅寺での修行のように全く日常からかけ離れた別世界の話のように感じられているのではないでしょうか。

 確かに「瞑想」という言葉は、「瞑」(めい)=目をつむること、「想」(そう)=思うこと、こういったことから「静かに目をつむって思いをめぐらすこと」のような意味があります。仏教の伝来とともにこれが宗教的な意味合いが込められて「無になる」境地への修行へとつながっていたりします。ですから「瞑想」というと日本では仏教とのつながりから宗教的な意味合いが色濃く出てしまいがちになっています。

 今年のノーベル生理学・医学賞に輝いた大隅教授の研究は、我々の体を構成する細胞の中の微細な働きを次々と解明しています。大隅教授の発見は、細胞の中にある液胞という老廃物をため込む袋の中の働きの解明でした。袋に溜まった老廃物(タンパク質)を分解してエネルギーに再利用しているというものでした。これをオートファジー(自食作用)といいます。この働きの発見には、細胞の飢餓状態が貢献しています。つまり細胞を「断食」させることで細胞の働きの活性化を図った結果、オートファジーの現象が顕著に捉えることができたといいます。

 同じく細胞の中にある長寿細胞といわれる「ミトコンドリア」という器官がありますが、プチ断食によってその数が増えるということがわかっています。このように漢方の医学で医療として長年奨励されてきた「断食」の効用が先端医学でやっと証明されつつあります。そういった先端医療の研究の先に「マインドフルネス」というのが最近注目されるようになったのです。脳科学の発達は、脳内の様々な変化を外から捉えることが可能になり、脳の中心部にあって記憶や生命活動に重要な働きがあると考えられていた「海馬」の働きなどもその変化をとらえるに至って様々なことがわかってきました。この続きはまた次回に。




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CK治療とは万能薬のようなものである

「CK治療」を簡単に説明すると、第1頚椎と第2頚椎という後頭部の深い部分の硬直を緩めることで、更に奥に位置する脳幹部の働きに影響を与えようとする治療である。治療の最後に首を左右どちらかに固定して腰をゆらゆらゆする試みは、第1頚椎と第2頚椎の歪みを整えることを意図している。「はり」の治療で第1頚椎と第2頚椎周辺の硬直した筋肉を緩め、腰部や股関節周辺の筋肉も緩め、全体が動きやすい状態にしておいて、独特の「ゆれ」の影響で改善を図っているのである。

最近のテレビ番組においてもよく耳にするようになった生活習慣の改善のための数分程度の運動とは、こういった東洋医学が長年取り組んできた治療を、より日常的に簡単にできる形で紹介されているに過ぎない。これはこれで、十分に効果があるので自分に合った運動を取り入れることは大事でもある。しかしながら、既に様々な症状が顕在化している場合に、素人療法は時には逆効果にもなりかねないので、そこは専門家によく診てもらってからにしたほうが賢明である。

そういう面でも「CK治療」は症状がある無しにかかわらず、身体が示している様々な反応をそれに合わせて取り除いておいて、日常的に硬直しかけた脳幹部周辺に、心地の良い「ゆれ」の影響を与えてその働きの向上を目指すことは、想像以上に効果的なのだ。そしてこの脳幹にこそ我々人間にとっては、生命活動の根幹となる神経網が集約した場所でもあり、脳幹への影響は即座に神経系統への影響があってしかりと考えられる。「CK治療」が、様々な疾患に対して思いのほか効果が発揮されるのはそのためだとも考えられる。

また、東洋医学の治療概念は、単に脳幹部を刺激すると考えるのではない。腎臓の力で身体の支柱である骨をつくり、肝臓の力で支柱である骨に付着して筋肉を動かすことで行動へとつなげているとともに肝臓は外部からの様々な侵入物から戦うことで身を守っている。さらに腎臓は内部にあって内からの汚濁を浄化させて体内環境を調えている。実は第1頚椎周辺の硬さは腎臓、第2頚椎では肝臓の影響が大きいことをつきとめた。つまり外部環境からの影響を強く受けている場合には肝臓変動型、内部環境の強い影響では腎臓型と分類して対処できるに至ったのである。まさしく「肝腎要」の治療となったのである。




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